共感できるコラムや本
今年の7月初旬や9月上旬の台風の被害、そして9月の北海道の地震等を見ると、本当に久美浜町は自然災害の被害が少ないことを有り難く感じることがあります。
一生懸命建てた自宅が壊れ、その片付けを朝から晩までひたすらに行っておられる人、大量の土砂を毎日毎日自宅から掻き出す作業をされる人、復旧作業をしてもゆっくりと休む場所も無い人、本当に大変だと思います。
被害にあわなければ、何一つしなくても良い事です。精神的にも肉体的にも言い表せないほどのつらい作業ではないでしょうか。そんなことを考えていた時に、以前読んだコラムを思い出しました。
平成23年3月11日に東日本大震災がありました。その時の想いを、当時大阪大学の総長をされていた鷲田清一様が書かれていたことがとても印象深く、それ以来私は鷲田先生の書かれたコラムや本を読んでいます。
*2011.6.11朝日新聞朝刊より
〈隔たり〉ということを、いまもって強く意識させられたままだ。被災した地域の人びとと被災しなかったわたしたちとのあいだの〈隔たり〉。
~中略~
長く住みなれた家では身体はまわりの空間に溶けでているが、避難所では身体は皮膚の内側に閉じこもる。他人の気配に緊張は解けず、何かがちょこっと身体にふれるだけで、身は竦(すく)み、凍(い)てついてしまう。皮膚はずるむけのそれのように傷つきやすく、それにつれて気持ちもささくれだってくる。だからつい「事件」も起こる。罵(ののし)りあいや怒号、そして慟哭(どうこく)が、あちこちで噴きだす。身をほどく空間もなく、たがいに擦り傷をこすりつけあうばかりのそうした生活は、耐えうるものではない。
当初、身を襲っているものの姿さえ捉えられず、茫然(ぼうぜん)とするばかりだった被災者の心根に、やがてじわりじわり、喪(うしな)ったものの大きさが沁みてくる。家族や友人、あるいは家、あるいは職という、これまでみずからの生存の根であったものを失い、どう自分を立てなおすべきか途方に暮れるうち、だんだん言葉少なになってゆく。自分だけが生き残ったことに責めを感じ、押し黙ってしまう人もいよう。からだは忘れたがっているのに、頭のほうは忘れてはいけないと言う、そんな二つの声に引き裂かれている人もいよう。
やっと水道が通ったばかりの地域もあれば、普段どおりの生活に戻った地域もある。「元」に戻ることを断念した人たちもいる。そんなかれらにとって、一人ひとりの記憶が深く刻まれた柱や瓦、日用品の数々がひとまとめに「がれき」と呼ばれるのは、耐えがたいことだろう。そして、一人、一人と避難所を去ってゆくなかで、取り残されたという感覚に押しつぶされ、崩れてゆく人も、悲しいけれどきっと出てくるだろう。〈隔たり〉は被災地でもさまざまなかたちで増幅するばかりだ。
~中略~
いずれにせよ、〈隔たり〉はなくなるどころか、いっそう大きくなるばかりだ。被災地のなかでも、被災地とその外とのあいだでも。
以上、私としては共感できる内容でありました。
介護に関しては、ターミナルケアについての話もネットで見たことがあります。また皆様もネットで閲覧したり本を読んでみられることをお勧めします。